2011年03月24日

地震と政治

最近「水戸学」に関する文献を方々で漁ってますが、その中に一寸気になる一文が。

 「天災というのは、時の政治情勢に呼応するような形でやってくる。」

 お読みの諸賢ならすぐピンと来るでしょうが、無論安政の大地震のことですね。(今日の朝日新聞の「天声人語」も参照。http://www.asahi.com/paper/column.html)何だか厭ァな一文です。

 政権末期と言われて久しい現政権ですが、しかし、言われているようなもたつきを、個人的には、感じません。抑々このような天災人災の後はどのような対応をしても後からあだこだ言われるわけで(村山富市元首相が好例ですね)、それを考えると上記の文章は如何にも「後出しジャンケン」的な臭い、即ち後世の世人の評価を其の儘横に流して書かれたような気がしなくもないですね。
 言い方が分かり難いでしょうから整理して書きますと、要するに被災をすると精神的、肉体的に追い詰められることがまま在ると考えられ、また政権側の対応はファクターが種種あることを認識していることからどうしても及び腰な物となり勝ち(拉致被害者の家族会と政府の間の軋轢を見よ)となる。そうすると評価はどうしても劣る、またそれを聞かされた人間或いはそれを間接的に知った人間にしても時の政治情勢は悪かったことになってしまう。こういった循環があるような気がします。

 でもでも、このような文章が世人の耳目を引くのもまた事実。勿論此れをお読みの方々はそんなことはないでしょうが、キャッチーなんですよね、要するに。ですから我々は、こういった時であるからこそ、このようなキャッチーな言動に迷わされては決してなりますまいて。

 最後になりますが、この度の震災で亡くなられた方のご冥福を心よりお祈りいたしております。

 以下に蛇足あり


posted by 毛竹斎染垂 (Kechikusai Shimitare) at 00:09| Comment(0) | 評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月22日

夜戦(ナイタァ)は断じて開催すべからず

 [茫洋傾材新報 社説]

 プロ野球の復活の吾輩の予想より遥かに早かりしは、同時に球場の被害のまた意外に少なかりし意味において、国民とともに深く喜ぶ処なり。しかれども、かくて開催に帰せるプロ野球は、結局いかに処分するをもって、最も得策となすべきか。これ実に熟慮を要する問題なり。

 この問題に対する吾輩の立場は明白なり。パ・リーグは拙速に実行すべからず、セ・リーグも宜しく早きに迨んでこれを延期すべし、とはこれ吾輩の宿論なり。更に新たに夜半の一角に領土を獲得する如きは、害悪に害悪を重ね、危険に危険を加うるもの、断じて反対せざるを得ざるところなり。

 そもそも夜戦(ナイタァ)を行うことによって、果たして被災地平和の増進に効ありやというに、吾輩の所見にては、寸益なくしてかえって舞台を険悪に置く害あるを虞る。吾輩は本来、プロ野球の試合延期、夜戦非開催を以て、格別東洋の平和を危うくするの害あるを認めず、かえって日本富源の開発繁栄の増進に大効あることを信ずるものなるが、仮りに、我がNPB当局およびオーナーの多数の考うる如く、東洋の平和に害ありとせん。しかれども文科省の意見を議論の一端より駆逐して、試合開催の意見が代わってその一角に盤距すれば、それが、何故に被災地の平和を増進することになり得るや。換言すれば、文科省が意見を汲めば被災地の平和に有害なれども、夜戦の開催を行えば被災地の平和に害なしという理由如何。もし急用以外の電力が、電力需要の一部を領有することが、電力争奪の端を啓き、あるいは東電管内における需要の機会均等主義を破り、日本を舞台とする相互関係を険悪に導くというならば、プロ野球の試合延期の害あるが如く、NPBの夜戦を実行するもまた、均しく有害ならざるを得ず。否、あに独り夜戦開催のみならん。・・・。もしまた、一般人の性質および政策に特に危険の指摘すべきものあるか。世人はややもすれば一般人の帝国主義と、強大なる指導を挙ぐるといえども、この点においてNPBまた、一般人に勝るとも決して劣るものにあらず。・・・。いずれの点より見るも、NPBが一般家庭に代わりて電力を領有するも、毫も被災地の平和に増進すべき理由あるを発見する能わず。

 加之、更に一歩進めて考うるに、鉄道・省庁・一般家庭の諸セクターが、電力需要の割取するの野心なきは天下の認むる所、否、この三セクターは衷心より、多勢の、電力割取を恐れ、百万その防止に努力しつつあり。而してややもすれば電力の占守に野心を包蔵すと認められつつあるは、セ・パの両連盟なり。この点において、NPBは深く国民に恐れられ、排斥を蒙り、更に他セクターには危険視せされ、監督省庁の文科省にすら大いに猜疑せらる。しかるに、今もし試合開催を決定せよ、ただそれだけにても、NPBの東電管内における電力割拠は著しく目立つべきに、そのうえ更に夜戦を開催して、東電管内の地に、金銭的経営を行わば、その結果は果して如何。東電管内におけるNPBの圧迫はいよいよ明白となりて、国内諸セクターの視聴を聳動すべきは言を待たず。オーナー陣ををして言わしむれば、プロ野球が東電管内に拠り、他電力管内に拠ることは、国際的に、国内的に、人心に一朝事ある場合には我が有力なる選手陣を迅速に、有力にはたらかして、速やかに平和を回復を得しめ、はたまた落胆を未然に防止する所以なりと、説かんも、東電管内住民、及び東電管内に大利害を有する諸セクターの立場より見れば、これほど、危険にして恐るべき状態はあるべからず。

 災害中の今日こそ、世人の中には、NPBの試合開催至当なりと説くものもあるを伝うといえども、這次の大災害もいよいよ被害が判明し、復興を開始し、人心落着きて、物を観得る暁に至れば、一般人は申すまでもなく、プロ野球に好意を有するファンといえども、必ずや愕然として畏るる所を知り、NPBを目して極東の平和に対する最大の危険団体となし、国民の互いに結合して、我が国の東電管内における地位を顛覆に努むべきは、今より想像して余りあり。かくてNPBの電力割取は実に不抜の怨恨を国民に結び、諸セクターに危険視せられ、決して被災地の平和を増進する所以にあらずして、かえって形勢を切迫に道くものにあらずや。

 這回の震災において、東電が残るにせよ潰れるにせよ、NPBが東電に依頼し、東電より電力を奪取せるは、NPB外交第一着の失敗なり。もしそれNPBが夜戦を開催せば、これ更に重大なる失敗を重ねるものなり。その結果は、あにただ国民に更に限りなき不便を負担を強ゆるのみならんや。夜戦の開催は断じて不可なり。

******

一寸パロディを作ってみました。時間に任せて。ネタ元が怪しい方は日本史の史料集を参考にでもして下さいね。
しかし疲れた・・・。多分、もう、やらない。

posted by 毛竹斎染垂 (Kechikusai Shimitare) at 00:25| Comment(1) | 評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月03日

aicezuki擁護論

京都大学でのカンニング行為に関する問題で、本日新たな動きが有ったようですね。大学の経済学部図書館で一通り目を通してきました。
朝刊各紙
朝日:http://www.asahi.com/national/update/0303/OSK201103030032.html

読売:http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110302-OYT1T01112.htm?from=nwla

毎日:http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110303k0000e040097000c.html

産経:http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110303/crm11030316100022-n1.htm

日経:http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819499E2E1E2E39F8DE2E1E2E1E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2

Japan Times:http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/nn20110303a1.html

(参考)河北新報:http://www.kahoku.co.jp/news/2011/03/2011030301000187.htm


 殆どが共同通信の記事を右から左に流した、あるいは少なくとも其れを横目に見つつ作成したものであるせいか、基本的に同じ論調、即ち「入試と言う『真正』に『神聖』な儀式を汚す不届き者をやっつけた」という雰囲気が感じられます。亦、其れはその傍系記事(所謂「ワイドショーの空気」の延長線上に位置する下品なジャーナリズム、またの名を「三面記事」)にある受験生の「怒り」なるものへの同情に満ちた筆致からもうかがえるように思われます。(参考:http://www.asahi.com/special/cheating/OSK201103020201.html

 これを刑事事件として立件しようというのですから警察も可成の鼻息の荒さです。いや寧ろ乱暴と言って良いのかもしれない。

 抑々「入試」という大仰な、カネもヒトもヒマも掛かる手段を今も猶し続けるメリットは有るのか、これを考えなくてはならない。入試には自分の今後とは基本的に無関係な科目を強制的にさせられる事が得てして有ります。個人的な例で恐縮ですが、私にとっては化学や数学はこの範疇に入ります。その様な学問に就いてまで総てを頭に放り込んでおく意味は有るのでしょうか?将来に向かって有益な人材を育てる、と言うのが教育機関の課題であるのならば、将来このように雑多な知識が断片状に入っているという状態を形成するよりは、益々リテラシー教育、殊にインターネット・メディア・リテラシー教育を推進すべきなのであるように思われるのです。

 また、大学が入試考査を通じて何が見たいのか、と言う事にもこの問題はかかわってくるでしょう。京都大学がどうなのかは当方には知る由も有りませんが、基本的には図書館の資料カード入のような人物ではない筈です。何故ならば、今の時代は情報などと言うものは、それこそaicezuki氏が身を以て証明したように、求めれば、それが如何に「お手数をおかけする」長文であろうが、「途中計算」が要求される数学であろうが、たちどころに返ってくるのであって、寧ろこれからの時代に必要なのは既述したメディア・リテラシーと情報を従僕として使いこなす能力である筈だからです。

 ですから、彼の場合、非難されるべきは「yahoo!知恵袋」なる誰がユーザーとして登録しているのか分からないソースを一次ソースとして用いた情報収集能力の拙劣さに在るのであって、決して携帯電話を用いた行為そのものに帰せられるべきではないのです。彼がネットの世界を過信した所が非難されるべきであったのであって、決して彼が携帯電話で問題を窃「撮」したこと自体が咎め立てられるべきではないのです。aicezuki氏の行為は、情報化時代の真っただ中に在って旧態然と古色蒼然たる「入試」という儀式を「崇高なるもの」と誤信し続けてきた、或いは好んで誤信してきた、又は仕方なく誤信する振りをしてきた人々への強烈なカウンターであったのであります。

 所で、朝日新聞上のとある連載記事で、「入試の際には賽を受験生に振らせてその目を10倍した数字を得点に足してやれ。」なる主張を読んだ事が有ります。成る程な、と思わされました。その筆者の主張は「受験の時に総ての力が出せるなんて大間違い。1点の差に何の意味もない。」というものだったように思います。即ち、それならその様な偶然は偶然で被ってしまえ、というものなのでしょう。

 個人的には、大学が取るべき道は何れかと思います。短縮して言えば、全面的に持ち込みを可とするか、「サイコロ」か。持ち込みをOKとするのであれば、全面的に用意する事を許可するのですから、「サイコロ」制を導入する利益は無いと見るべきでしょう。逆に持ち込みを不可とするのなら、偶々得意分野が出たものを利する利益が逆にあるかを考察しなくてはならないでしょうが、個人的には其れは無いと考えます。(それは論ずるまでも無いでしょう。)全人なんていうものがニーチェ的理想に留まる以上、入試制度の「公平」性はそのようにして担保されるべきであると考えます。「公平」概念の転換、これが現代の入試に必要なものでしょう。

 これはほどほどにしますが、この事件では道徳的に非難されるべき事と法律上非難されるべき事が混然一体となって元受験生氏に負わされているような気がします。江戸時代の公事方御定書では「犯罪」に当たる単語として「まがごと」や「ひがごと」等の道徳的非難に用いる表現が用いられていますが、其れから殆ど出ていない。現代のうんざりするほどの万物の「法化」現象に差し当たりケチを付けずに受容するにしても、そして受容する事が正義であると仮定するにしても、「カンニングはするな」という飽くまで学校と言う部分社会の法理に対して刑法が介入するのはやっぱり司法権の濫用のような気がします。尤も、これは使い古されている議論なので、続きは誰かの本でも読んでください。続きを読む
posted by 毛竹斎染垂 (Kechikusai Shimitare) at 21:10| Comment(0) | 評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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