2013年06月15日

お引越し

http://toc-dan.hatenablog.com/
に引っ越します。


posted by 毛竹斎染垂 (Kechikusai Shimitare) at 00:48| Comment(0) | 評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月26日

「ラノベ試論」に対する試論(α版)

シャカイ系の想像力 (若者の気分) [単行本(ソフトカバー)] / 中西 新太郎 (著); 岩波書店 (刊)
を講読してました。成る程、筆者の分析は面白いですが、如何せん叩き台になっているラノベを知らないから全く反駁できないのは「反駁症候群」という何とも青臭い病気の患者たる私には厳しい。「『ブギーポップ』シリーズは常識だよ〜。」とか云われても、知らないものは知らないんだからしょうがない。ほぼ唯一分かったのは右側に有るせいで常日頃から慣れ親しむ結果となってしまった「ハルヒ」シリーズへの言及でしょうか。

 筆者はライトノベル独特の話法としての「韜晦―留保の話法」(ここで例として出てきたのが「ブギーポップ」シリーズであり、「生徒会」シリーズであったのですが。簡潔に云えば一刀両断にできない、「ねじれた」キャラクター像、というのを強調したかったのでしょう。例えば「美少女なのに、恋愛をしない(興味がない)」とか。我々に近しい言葉を使えば「残念」に近いのかな、と思いましたが・・・?)を指摘した上で、ハルヒシリーズの主人公涼宮ハルヒをそれに乗っからないキャラクターとして捕らえる。筆者の用語を借りれば「俺様主義」、即ち「空気」が支配する(筆者はその「空気」を既存のものではなく、その場に存在するキャラクター化した人々が一から創り上げる「創発的なもの」と指摘してますが、それには全面的に賛成できると思います。)等の現実の世界へのカウンターとしての存在であることをまず指摘して(筆者は、最後の方で長門有希にも今の議論は当てはまる、と同様に指摘します。)

 その上で「強い」キャラクターはそれを突き詰めていくと精神の自立運動、もっと言えば永久機関的な運動を来たすようになり、ついには自らによって自らを存立せしめる基盤より放逐してしまうという危機にある、ということを指摘しています。そして「この観点からすれば、涼宮ハルヒの物語は、反転して、韜晦―留保を必要としない存在が揺れだす物語となり、ハルヒの絶対性は反転を可能にするための装置となっていることが分かる。」と結ばれます。(長門さんはその延長線上にあるんですね。)

 用語法は皆さんに分かりやすいように随所で変更しているので本当の文言は本書でご確認いただくとして、皆さんはどうお読みになりますかね。確かに現実世界へのカウンター的な存在を我(々)がハルヒに見出していることは疑いないでしょう。しかし、それであったら、「自律運動体」としての例では、「罪と罰」の主人公たるラスコーリニコフでもいい。つまり、筆者の論法に乗っかってこの作品を評せば、彼は社会一般には受け入れられがたいが彼としては確固たる論理をもって、老婆を殺す、という反社会的行為を立派に遂げてみせ、しかも献身的な娼婦ソーニャを見て、その自立的世界観に罅を生じせしめる。(なんと、この結果、筆者の分析手法では、ラスコーリニコフ=ハルヒとなる!)

 つまり、それがライトノベル独特の世界観を想像する一要素である、という必然性が失われてしまう、様に、始めは、思っていましたが、しかし考えてみると、ライトノベルというグランドな分野をそれが扱っているということが存外に曲者であることがここで分かるわけです。定義自体で伸縮性を如何様にも獲得するイカサマな主体であるが故に、難しいんですね。

 とまれ、ライトノベルに一定の距離感を置きつつ分析せんとする筆者の姿勢には非常に好感が持てました。この続きに是非期待しつつ読み進めていきましょう。「若者のエートス」がラノベに生きていることを信じて・・・。
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posted by 毛竹斎染垂 (Kechikusai Shimitare) at 01:15| Comment(0) | 評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月24日

地震と政治

最近「水戸学」に関する文献を方々で漁ってますが、その中に一寸気になる一文が。

 「天災というのは、時の政治情勢に呼応するような形でやってくる。」

 お読みの諸賢ならすぐピンと来るでしょうが、無論安政の大地震のことですね。(今日の朝日新聞の「天声人語」も参照。http://www.asahi.com/paper/column.html)何だか厭ァな一文です。

 政権末期と言われて久しい現政権ですが、しかし、言われているようなもたつきを、個人的には、感じません。抑々このような天災人災の後はどのような対応をしても後からあだこだ言われるわけで(村山富市元首相が好例ですね)、それを考えると上記の文章は如何にも「後出しジャンケン」的な臭い、即ち後世の世人の評価を其の儘横に流して書かれたような気がしなくもないですね。
 言い方が分かり難いでしょうから整理して書きますと、要するに被災をすると精神的、肉体的に追い詰められることがまま在ると考えられ、また政権側の対応はファクターが種種あることを認識していることからどうしても及び腰な物となり勝ち(拉致被害者の家族会と政府の間の軋轢を見よ)となる。そうすると評価はどうしても劣る、またそれを聞かされた人間或いはそれを間接的に知った人間にしても時の政治情勢は悪かったことになってしまう。こういった循環があるような気がします。

 でもでも、このような文章が世人の耳目を引くのもまた事実。勿論此れをお読みの方々はそんなことはないでしょうが、キャッチーなんですよね、要するに。ですから我々は、こういった時であるからこそ、このようなキャッチーな言動に迷わされては決してなりますまいて。

 最後になりますが、この度の震災で亡くなられた方のご冥福を心よりお祈りいたしております。

 以下に蛇足あり
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