2011年03月26日

「ラノベ試論」に対する試論(α版)

シャカイ系の想像力 (若者の気分) [単行本(ソフトカバー)] / 中西 新太郎 (著); 岩波書店 (刊)
を講読してました。成る程、筆者の分析は面白いですが、如何せん叩き台になっているラノベを知らないから全く反駁できないのは「反駁症候群」という何とも青臭い病気の患者たる私には厳しい。「『ブギーポップ』シリーズは常識だよ〜。」とか云われても、知らないものは知らないんだからしょうがない。ほぼ唯一分かったのは右側に有るせいで常日頃から慣れ親しむ結果となってしまった「ハルヒ」シリーズへの言及でしょうか。

 筆者はライトノベル独特の話法としての「韜晦―留保の話法」(ここで例として出てきたのが「ブギーポップ」シリーズであり、「生徒会」シリーズであったのですが。簡潔に云えば一刀両断にできない、「ねじれた」キャラクター像、というのを強調したかったのでしょう。例えば「美少女なのに、恋愛をしない(興味がない)」とか。我々に近しい言葉を使えば「残念」に近いのかな、と思いましたが・・・?)を指摘した上で、ハルヒシリーズの主人公涼宮ハルヒをそれに乗っからないキャラクターとして捕らえる。筆者の用語を借りれば「俺様主義」、即ち「空気」が支配する(筆者はその「空気」を既存のものではなく、その場に存在するキャラクター化した人々が一から創り上げる「創発的なもの」と指摘してますが、それには全面的に賛成できると思います。)等の現実の世界へのカウンターとしての存在であることをまず指摘して(筆者は、最後の方で長門有希にも今の議論は当てはまる、と同様に指摘します。)

 その上で「強い」キャラクターはそれを突き詰めていくと精神の自立運動、もっと言えば永久機関的な運動を来たすようになり、ついには自らによって自らを存立せしめる基盤より放逐してしまうという危機にある、ということを指摘しています。そして「この観点からすれば、涼宮ハルヒの物語は、反転して、韜晦―留保を必要としない存在が揺れだす物語となり、ハルヒの絶対性は反転を可能にするための装置となっていることが分かる。」と結ばれます。(長門さんはその延長線上にあるんですね。)

 用語法は皆さんに分かりやすいように随所で変更しているので本当の文言は本書でご確認いただくとして、皆さんはどうお読みになりますかね。確かに現実世界へのカウンター的な存在を我(々)がハルヒに見出していることは疑いないでしょう。しかし、それであったら、「自律運動体」としての例では、「罪と罰」の主人公たるラスコーリニコフでもいい。つまり、筆者の論法に乗っかってこの作品を評せば、彼は社会一般には受け入れられがたいが彼としては確固たる論理をもって、老婆を殺す、という反社会的行為を立派に遂げてみせ、しかも献身的な娼婦ソーニャを見て、その自立的世界観に罅を生じせしめる。(なんと、この結果、筆者の分析手法では、ラスコーリニコフ=ハルヒとなる!)

 つまり、それがライトノベル独特の世界観を想像する一要素である、という必然性が失われてしまう、様に、始めは、思っていましたが、しかし考えてみると、ライトノベルというグランドな分野をそれが扱っているということが存外に曲者であることがここで分かるわけです。定義自体で伸縮性を如何様にも獲得するイカサマな主体であるが故に、難しいんですね。

 とまれ、ライトノベルに一定の距離感を置きつつ分析せんとする筆者の姿勢には非常に好感が持てました。この続きに是非期待しつつ読み進めていきましょう。「若者のエートス」がラノベに生きていることを信じて・・・。
  尤も、現段階では、お読みの通り、粗しかありません。是はもっと詰めていかないと・・・。


posted by 毛竹斎染垂 (Kechikusai Shimitare) at 01:15| Comment(0) | 評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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