2011年03月03日

aicezuki擁護論

京都大学でのカンニング行為に関する問題で、本日新たな動きが有ったようですね。大学の経済学部図書館で一通り目を通してきました。
朝刊各紙
朝日:http://www.asahi.com/national/update/0303/OSK201103030032.html

読売:http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110302-OYT1T01112.htm?from=nwla

毎日:http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110303k0000e040097000c.html

産経:http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110303/crm11030316100022-n1.htm

日経:http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819499E2E1E2E39F8DE2E1E2E1E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2

Japan Times:http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/nn20110303a1.html

(参考)河北新報:http://www.kahoku.co.jp/news/2011/03/2011030301000187.htm


 殆どが共同通信の記事を右から左に流した、あるいは少なくとも其れを横目に見つつ作成したものであるせいか、基本的に同じ論調、即ち「入試と言う『真正』に『神聖』な儀式を汚す不届き者をやっつけた」という雰囲気が感じられます。亦、其れはその傍系記事(所謂「ワイドショーの空気」の延長線上に位置する下品なジャーナリズム、またの名を「三面記事」)にある受験生の「怒り」なるものへの同情に満ちた筆致からもうかがえるように思われます。(参考:http://www.asahi.com/special/cheating/OSK201103020201.html

 これを刑事事件として立件しようというのですから警察も可成の鼻息の荒さです。いや寧ろ乱暴と言って良いのかもしれない。

 抑々「入試」という大仰な、カネもヒトもヒマも掛かる手段を今も猶し続けるメリットは有るのか、これを考えなくてはならない。入試には自分の今後とは基本的に無関係な科目を強制的にさせられる事が得てして有ります。個人的な例で恐縮ですが、私にとっては化学や数学はこの範疇に入ります。その様な学問に就いてまで総てを頭に放り込んでおく意味は有るのでしょうか?将来に向かって有益な人材を育てる、と言うのが教育機関の課題であるのならば、将来このように雑多な知識が断片状に入っているという状態を形成するよりは、益々リテラシー教育、殊にインターネット・メディア・リテラシー教育を推進すべきなのであるように思われるのです。

 また、大学が入試考査を通じて何が見たいのか、と言う事にもこの問題はかかわってくるでしょう。京都大学がどうなのかは当方には知る由も有りませんが、基本的には図書館の資料カード入のような人物ではない筈です。何故ならば、今の時代は情報などと言うものは、それこそaicezuki氏が身を以て証明したように、求めれば、それが如何に「お手数をおかけする」長文であろうが、「途中計算」が要求される数学であろうが、たちどころに返ってくるのであって、寧ろこれからの時代に必要なのは既述したメディア・リテラシーと情報を従僕として使いこなす能力である筈だからです。

 ですから、彼の場合、非難されるべきは「yahoo!知恵袋」なる誰がユーザーとして登録しているのか分からないソースを一次ソースとして用いた情報収集能力の拙劣さに在るのであって、決して携帯電話を用いた行為そのものに帰せられるべきではないのです。彼がネットの世界を過信した所が非難されるべきであったのであって、決して彼が携帯電話で問題を窃「撮」したこと自体が咎め立てられるべきではないのです。aicezuki氏の行為は、情報化時代の真っただ中に在って旧態然と古色蒼然たる「入試」という儀式を「崇高なるもの」と誤信し続けてきた、或いは好んで誤信してきた、又は仕方なく誤信する振りをしてきた人々への強烈なカウンターであったのであります。

 所で、朝日新聞上のとある連載記事で、「入試の際には賽を受験生に振らせてその目を10倍した数字を得点に足してやれ。」なる主張を読んだ事が有ります。成る程な、と思わされました。その筆者の主張は「受験の時に総ての力が出せるなんて大間違い。1点の差に何の意味もない。」というものだったように思います。即ち、それならその様な偶然は偶然で被ってしまえ、というものなのでしょう。

 個人的には、大学が取るべき道は何れかと思います。短縮して言えば、全面的に持ち込みを可とするか、「サイコロ」か。持ち込みをOKとするのであれば、全面的に用意する事を許可するのですから、「サイコロ」制を導入する利益は無いと見るべきでしょう。逆に持ち込みを不可とするのなら、偶々得意分野が出たものを利する利益が逆にあるかを考察しなくてはならないでしょうが、個人的には其れは無いと考えます。(それは論ずるまでも無いでしょう。)全人なんていうものがニーチェ的理想に留まる以上、入試制度の「公平」性はそのようにして担保されるべきであると考えます。「公平」概念の転換、これが現代の入試に必要なものでしょう。

 これはほどほどにしますが、この事件では道徳的に非難されるべき事と法律上非難されるべき事が混然一体となって元受験生氏に負わされているような気がします。江戸時代の公事方御定書では「犯罪」に当たる単語として「まがごと」や「ひがごと」等の道徳的非難に用いる表現が用いられていますが、其れから殆ど出ていない。現代のうんざりするほどの万物の「法化」現象に差し当たりケチを付けずに受容するにしても、そして受容する事が正義であると仮定するにしても、「カンニングはするな」という飽くまで学校と言う部分社会の法理に対して刑法が介入するのはやっぱり司法権の濫用のような気がします。尤も、これは使い古されている議論なので、続きは誰かの本でも読んでください。

これは私が今日の朝刊を見て被告氏の出身地を見たせいではないです。多分。


posted by 毛竹斎染垂 (Kechikusai Shimitare) at 21:10| Comment(0) | 評論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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